クライン・ゴルドン方程式は、
相対論的な方程式であるが、時間については2階の微分になっているため、
確率密度が負に変化するような解も許されてしまい、
波動関数の2乗を全空間で積分した量(確率の総和)の
時間微分(確率の総和の変化)が0にならず、
確率密度が連続の式を満たさない、という欠陥がある。
クライン・ゴルドン方程式は、ヒッグス粒子などのスピン0のボース粒子が満たす方程式としては正しいが、
シュレーディンガー方程式における「自由粒子」は、電子や陽子のようなスピン1/2のフェルミ粒子を仮定しているため、
フェルミ粒子は突然なくなったり出現したりすることはないから、存在確率の総和が一定でないと、
電子や陽子などのスピン1/2のフェルミ粒子を取り扱う方程式としては不適切である。
従って、
クライン・ゴルドン方程式にはスピンが入っていない、
という問題もある。
一方、フェルミ粒子の波動関数は、シュレーディンガー方程式に従うが、
シュレーディンガー方程式は、
時間については1階、空間座標については2階の微分方程式になっており、
ローレンツ変換性と矛盾し、相対性理論と相容れない
非相対論的な方程式である。
そもそも、クライン・ゴルドン方程式は、時間について2階の微分方程式になっているが、
量子力学の波動方程式に使われる波動関数は確率振幅を表すものであるから、
波動方程式は時間については1階の微分方程式である必要があり、
さらに、その波動方程式が相対論的に不変な形であるためには、
空間についても1階の微分方程式でなければならない。
しかし、特殊相対論のエネルギーの式:
E2
=c2|p|2+m2c4
=c2(px2+py2
+pz2)+m2c4
は、左辺がエネルギーの二乗E2の形で表されており、右辺は二つの項の和で表されているので、
左辺をエネルギーE=の形にする際、右辺は、二つの項の和の平方根となるため、
特別な場合を除いて、この平方根を簡単に外すことはできない。
例えば、光のように質量が0であれば、
E=c|p|
=c(px+py+pz)
と表されるし、静止質量は、運動量が0なので、
E=mc2
で表される。しかし、質量が存在し、運動している場合は、平方根を外すことは難しい。
まず、波動関数ψに上式を作用させて、次の式の形にする。
Eψ=(cα・p
+βmc2)ψ
={c(αx px
+αy py
+αz pz)
+βmc2}ψ
ここで、クライン・ゴルドン方程式
の時と同様に、エネルギーや運動量を
の様に演算子化すると、
となる。これが「ディラック方程式」と呼ばれている式である。
「ディラック方程式」を確定するには、先程導入した未知の係数:
α=(αx, αy,
αz)及び、βを決定する必要がある。
ディラック方程式の解は、「クライン・ゴルドン方程式」の解にもなっていなければならないから、
ディラック方程式の波動関数ψに作用している演算子部分を、
波動関数ψに2回作用させ、時間についての2階微分方程式:
を作ったときに、その微分方程式は、クライン・ゴルドン方程式と一致するはずである。
実際に、クライン・ゴルドン方程式と一致するためには、クライン・ゴルドン方程式:
と両辺の係数を比較して、
αx2=αy2=αz2=
β2 = 1
αx αy
+ αy αx
= αy αz
+ αz αy
= αz αx
+ αx αz = 0
β αx
+ αx β
= β αy
+ αy β
= β αz
+ αz β
= 0
という条件が成り立つ必要がある。
しかし、これらの条件式を満たす
α=(αx, αy,
αz)及び、βは、普通の数にはない。
勿論、通常の複素数係数にもこれらの条件式を満たすものはない。
実は、「1」が2行2列の単位行列「1」であるとすると、パウリ行列σi:
が、これらの条件式のうち、上から2つを満たしている。
しかし、αiとβが2行2列の行列で、
αi=σiという可能性を調べると、
2行2列の行列で独立なものが、
σ1, σ2, σ3, 1の4つしかなく、
β=1とすると、一番下の条件式は満たされないため、2行2列の行列という解はない。
同様に、3行3列の行列でも、上記の関係式を満たすものはないので、
α=(αx, αy,
αz)及び、βは、少なくとも4行4列の行列でなければならない。
パウリ行列の性質を継承したまま4行4列の行列に拡張するために、
「パウリ行列と
テンソル積(「直積」ともいう)の行列版である、
クロネッカー積を使って、パウリ行列を拡張してみる。
例えば、よく使われるのは、次のような行列である。
これら4つの行列は、「ディラック行列」と呼ばれている。
実際に計算すると、
となるので、条件式:
αx αy
+ αy αx
= αy αz
+ αz αy
= αz αx
+ αx αz = 0
を満たす。さらに、
となるので、条件式:
β αx
+ αx β
= β αy
+ αy β
= β αz
+ αz β
= 0
も満たしている。
ところで、係数が行列であると言うことは、波動関数ψが
のような4成分縦ベクトルであるということに注意しなければならない。
この4成分縦ベクトルを「ディラック場」という。具体的には、
という各項が絡まった4つ組の式になる。
サイン・ゴルドン方程式の静止解の場合を考えたときと同様に、p=0を考えると、
となり、左辺はエネルギーであるから、
ψ3とψ4は、
エネルギーがマイナスになってしまう。
これは「反粒子」を意味している(後述)。
ここまで、「ディラック行列」と「ディラック方程式」について述べてきたが、
ここでは、上述のカラクリについて、考察してみることにしよう。
実は、因数分解がノーベル物理学賞を受賞した研究の核心部分で活かされているのである。
ディラックは、因数分解でノーベル物理学賞をとったと言っても過言ではないだろう。
因数分解としてまず思い浮かぶのは、中学校1~2年の
因数分解の単元で登場する、「和と差の積は二乗の差」:
a2-b2=(a+b)(a-b)
だろうか。これが高等学校1~2年の単元で複素数が登場した際、
a2+b2=(a+ib)(a-ib)
の様に、「二乗の和」も和と差の積に分解できるようになる。
実際に、この形式の因数分解の手法は、量子力学の調和振動子の演算子解法に於いても用いられている。
さらに、項数を二つから三つに増やして、
a2+b2+c2
とすると、複素数の範囲でも因数分解できなくなる。
この式は、大学の学部2~3年の量子力学で登場する、
「パウリ行列」σx、σy、
σzを利用すれば因数分解できる。
「パウリ行列と
2行2列の単位行列を1で表す(或いは、EやI等で表す)と、
(aσx
+bσy
+cσz)2
=a2σx2
+b2σy2
+c2σz2
+ab(σx σy+σy σx)
+bc(σy σz+σz σy)
+ca(σz σx+σx σz)
=(a2+b2+c2)1
と展開できるから、逆に、
(a2+b2+c2)1=
(aσx
+bσy
+cσz)2
の様に分解出来る。パウリは、この計算を巧く使って、
電子の二価性(「上向きスピン」、「下向きスピン」)を示した。
ディラックは、上述の「ディラック行列」を利用して、項数が四つの場合:
a2+b2+c2+d2
を「パウリ行列」を利用した因数分解の場合と同様に、
(a2+b2+c2+d2)1=
(aαx
+bαy
+cαz
+dβ)2
のように因数分解して、「反粒子」の存在を示したのである。
※この場合の1は、4行4列の単位行列を表している。
次節以降に入る前に、準備として、特殊相対性理論の「4元ベクトル」という概念について述べておく。
「4元ベクトル」とは、ローレンツ変換に従う4成分から成る量をいう。例えば、以下に示したものが挙げられる。
「4元位置ベクトル」:
(ct, r)
=(ct, x, y, z)
※文献によっては、(ct, x)
=(ct, x, y, z)で表している場合もある。
更に、各成分をx0 ≡ ct、
x1 ≡ x、x2 ≡ y、x3 ≡ z
と表すこともある。
「4元運動量ベクトル」:
(E/c, p)
=(E/c, px, py, pz)
※各成分をp0 ≡ E/c、
p1 ≡ px、
p2 ≡ py、
p3 ≡ pz
と表すこともある。
また、これらのエネルギーや運動量を先程の様に演算子化すると、
となる。更に、これらをiℏで割った、時間微分と空間微分:
も4元ベクトルである。
「4元電流密度ベクトル」:
(cρ, i)
=(cρ, ix, iy, iz)
※文献によっては、(cρ, j)
=(cρ, jx, jy, jz)
で表している場合もある。
物理学では、虚数単位をiで表すために電流密度をjで表し、
電気電子工学では、電流密度をiで表すために虚数単位をjで表すことが多いようだ。
「4元電磁ポテンシャル」:
(φ/c, A)
=(φ/c, Ax, Ay, Az)
※本来、上記の4元ベクトルは全て反変ベクトルであり、
厳密には、添え字は下付き数字ではなく、上付き数字で表すのが正しいようだが、
ここでは、冪乗と紛らわしいので、添え字は下付き数字で統一している。
共変ベクトルで表した4元電磁ポテンシャルは、
(φ/c, -A)
=(φ/c, -Ax, -Ay, -Az)
と表せる。
その際、各成分は、A0 ≡ φ/c、
A1 ≡ -Ax、
A2 ≡ -Ay、
A3 ≡ -Az
で表される。
これは、後で、電磁場がある場合のディラック方程式について述べるときに使う。
先程のディラック方程式は、β2=1(4行4列の単位行列)になることを利用して、
更に変形して式を整理することができる。
ディラック方程式の両辺をℏcで割って、左からβを掛けてみると、
となる。ここで、ディラック行列を用いて、以下の行列:
を再定義する。これらの行列を「ディラックのガンマ行列」、
或いは、単に「ガンマ行列」と呼ぶ。
ここで、4元ベクトルの節で述べたように、「4元位置ベクトル」を
x0 ≡ ct、
x1 ≡ x、
x2 ≡ y、
x3 ≡ z
と表すと、ディラック方程式は、
と変形でき、より簡潔に表せる。
※このとき、μは、クライン・ゴルドン方程式で定義したものと同様である。
但し、テキストによっては、ダミー変数となる添え字を
iやμで表しているテキストもあるが、
ここでは、iとμは、先約があるため、
ダミー変数となる添え字は、jとしている。
※また、本来は上記の4元位置ベクトルは、
厳密には反変ベクトルなので、文献によっては、
上付き数字で表している場合もあるが、ここでは、
冪乗と紛らわしいので、添え字は下付き数字で統一している。
エネルギーや運動量を演算子化する際に、
電場Eに対する、スカラーポテンシャルφ
(クライン・ゴルドン方程式では、波動関数をφで表していたが、
ディラック方程式では、スカラーポテンシャルをφで表すため、
記号が被らないように、波動関数をψで表している)と、磁束密度Bに対し、
B= rot A
を満たす、ベクトルポテンシャルAを用いて、エネルギーと運動量を
の様に置き換えた演算子を波動関数にψに作用させると、電子の電荷は、
q=-e
なので、ディラック方程式は、
となる。今度は、一見すると、符号の関係で、先程の様に4元ベクトルを用いて
式を簡潔にすることは、これ以上出来ないように見受けられる。
しかし、反変ベクトルではなく、共変ベクトルで表した4元電磁ポテンシャル:
(φ/c, -A)
=(φ/c, -Ax, -Ay, -Az)
を用いれば、4元位置ベクトルの各成分を
x0 ≡ ct、
x1 ≡ x、
x2 ≡ y、
x3 ≡ z、
4元電磁ポテンシャルの各成分を、A0 ≡ φ/c、
A1 ≡ -Ax、
A2 ≡ -Ay、
A3 ≡ -Az
と表すことによって、電磁場がある場合のディラック方程式も同様に、
と変形でき、より簡潔に表すことが出来る。
ここでも、ダミー変数となる添え字は、記号が被らないように、jとしているが、
テキストによっては、iやμで表しているテキストもある。
※また、ここでは、冪乗と紛らわしいので、添え字は下付き数字で統一しているが、
文献によっては厳密に、反変ベクトルは上付き数字、共変ベクトルは下付き数字
で表している場合もある。その表記法に従う場合は、上式は、4元電磁ポテンシャルAjを除いて、
本来は、ガンマ行列γを含め、4元位置ベクトル等、反変ベクトルの添え字は上付き数字になる。
電磁場がある場合のディラック方程式で示したように、
自由粒子に対するディラック方程式に対し、ベクトルポテンシャルは、
4元運動量-ベクトルポテンシャル
という形で導入される。この場合のベクトルポテンシャルは、
4元電磁ポテンシャルといった、4元ベクトルの意味で用いられているようだ。
この場合、スカラーポテンシャルは、
質量m+スカラーポテンシャル
の形で導入されるが、ディラック方程式にc=1、ℏ=1とする
自然単位系が採用されているため、m=μである。
ベクトルポテンシャルを持つディラック方程式は、
「クラインのパラドックス」と呼ばれる現象を起こすことがある。
これは、十分大きなポテンシャルに対して、非常に小さなエネルギーの粒子流が
ポテンシャル障壁に衝突するとき、障壁で反射してくる粒子数の方が、
入射粒子数より大きくなるという現象である。この場合でも、
「トンネル効果」の記事で述べた、透過率Tと反射率Rの関係
「T+R=1」は満たしているので、透過率Tは負の値となる。
このパラドックスは、反粒子の寄与によるものと解釈されている(後述)。
非相対論的なシュレーディンガー方程式を、相対論へ対応するための拡張として、
最初に考案されたクライン・ゴルドン方程式は、負のエネルギー解と負の確率密度の問題が生じた。
確率密度が負の値を取るのは、クライン・ゴルドン方程式が時間について2階の微分方程式であることに起因し、
ディラック方程式からは負の確率密度の問題は生じず、スピンの概念が自然に現れる。
しかし、ディラック方程式にも負のエネルギーの問題は存在する。
そして、このままでは、負の状態のエネルギーには下限がないので、
限りなく光を放ちながら、-∞の奈落へと際限なく落ちてゆくことになるだろう。
オスカル・クラインは、ある種の強いポテンシャルのもとで
正エネルギーの電子が負エネルギー状態へ遷移しうることを示して、
理論から負エネルギー状態を完全に排除することが困難であることを指摘した。
だが、もし、負エネルギーの状態が全て電子によって占有されているとすれば、
スピン1/2のフェルミ粒子である電子は、パウリの排他原理(パウリの排他律、パウリの禁制原理)によって、
負エネルギーの状態への遷移は禁止される。粒子が存在しないと考えられる真空状態は、
実は全ての負エネルギーの状態が電子によって完全に占有されている状態である。
この「真空とは、負エネルギーの電子が完全に満たされた状態である」とする概念を「ディラックの海」と呼ぶ。
ディラックの海では、負エネルギーの電子が取り除かれた「空孔」が生じることがある。
当初この空孔による粒子は、陽子であると考えられたが、
後に空孔の正体は、電子の反粒子である陽電子であることが分かった。
陽電子は、1932年にアンダーソンの霧箱を用いた実験によって、発見されている。
(1932年には、チャドウィックによって、中性子も発見されている。)
上記の理由により、「ディラックの海」の概念は、「空孔理論」とも呼ばれる。
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